自然と調和するためのオルガン

樹齢約300年と推定される、 この大きな銀杏の樹は、平瀬作五郎によって、その実の中に精子が発見された1896年から遡ること数十年前に伐採の危機にさらされたことがあ る。薬草園が幕府から明治政府に移管された際、植物園内の樹木は期限内に伐採すると関係者の所有となることとなったため、そのほとんどは切り倒されてしまった。そのとき、 この銀杏にも斧で切り口を入れられたが、あまりにも巨木で期限内に切ることが不可能で あったため難を逃れたという。その傷痕は、今もこの樹の裏側に、わずかに残されている。

一方、銀杏の前に置かれる古いリードオルガンも、あやうく廃棄されそうになっていた ところを、軽井沢の森の中にある医療施設「ほっちのロッヂ」によって引き取られた楽器 である。今では、施設内でケアの一環としても使われている。

植物も楽器も、その時代の人々の都合で簡単に廃棄されていくなか、間一髪で難を逃 れ、共に医療施設のかたわらに存在していたという共通点を持つ銀杏とオルガンを、出会 わせてみたくなった。

わたしは昨年、その医療施設で3ヶ月間の滞在制作を行って以来、ケアと芸術、そして 自然との関わりについて考え続けている。”病” というのは、痛みや悲しみにとらわれ、身動きがとれなくなってしまった状態のことを指すのではないだろうか。

自然のなかに身を置くことで、心身が癒されると感じる人は多い。そのとき、ひとは小さな”個”を越えて、植物や昆虫、動物、微生物がつくる生態系、あるいは夜空に光る星々と同期しようとしているのではないだろうか…?

ミクローマクロの尺度で世界を再び捉えなおすことは、ひとの心の状態を、ふわりと健 やかな位置に整えてしまうところがある。そして音楽や芸術も同じように、その律動や新しい価値観によって、”個”の外に存在するサイクルに、ひとを同期させてしまう側面を持 つ。自然、ケア、そして芸術をつなぐのは、このあたりにあるのではないだろうかという 仮説のもと、私はこの作品で、音の響きをとおした自然とのあたらしい関わり方を提案し たいと考えている。

この作品において、オルガンは従来の楽器としての扱いとは異なり、自然と調和するた めのミディアムとして存在している。気持ちの良い屋外で、大きな銀杏のかたわらで、オルガンと呼吸を同期させながら、ひとつ、またひとつ、音を響かせてみてほしい。

自然による調律。
音楽が、自ずと立ち上がってくる。

私はまた、かつてこの場所にあった小石川養生所が、全ての人々にひらかれていたよう に、即興演奏をもっと多くの人々にひらかれたものにしたいと考えている。音楽以前の、 音の響きそのものに分け入っていくような体験へ来場者をいざなう作品である。

言葉の楽譜
植物園では
今 どんな音がしている?

音の始まり
音の終わり

そして
その間の音

大きな銀杏の樹のてっぺんを
見上げて

深呼吸

直感で
鍵盤をひとつ
選び

鍵盤を押しながら
足元のペダルを
ゆっくり踏み込む
音が消えるまで

ふーっと息をはきながら
ペダルを
左 右 左 右

野口桃江(Momoko NOGUCHI):器楽〜電子音響作品の作曲、自身の生体情報を即興演奏に取り入れたパフォーマンス、インスタレーションやアートプロジェクト、コンサートの制作を日本、ヨーロッパ各地で行っている。桐朋学園大学音楽学部 作曲理論学科卒業。デン・ハーグ王立音楽院 ArtScience学科修士課程修了。https://momokonoguchi.com